被害者学というものに興味を持った(持つべきではと思った)はなし

『消された一家 -北九州・連続監禁殺人事件-』ってレビューとかで犯人の手口が巧妙で人ごとではないとかこうなってもおかしくないとかいうのがちらほらあったりするけど、

いやいや明らかに間違ってるだろうと感じる対応をチラホラとしてるし普通そうはならんだろう、そうはしないだろう」
とも思い〜の、
 
いやでもたしかに
「こういう対応してしまう家族ってたくさんあるだろうな」
って感じる領域の家族なんだけども、
 
「いやそれがおかしいでしょ、『同じようなことをされたら同じ結果になるような家族ってきっとたくさんいるだろうな』って感じられるような世の中の方がおかしいでしょ!」
って思い〜の、
 
でもやっぱりこの被害者たちは明らかに「普通」の枠に入る人たちで、被害者でもあって、
だからその心理を理解しようとか気持ちを寄せようとしてしまってモヤモヤして〜の、
 
『人殺しの息子と呼ばれて』の、キッパリと母親も自分も加害者だって思う賢さと自立心に浄化され〜の勇気もらい〜の、
 
で完結しました 随分前の話だけど
 
 
実際、加害者の元妻とか会社の人とか、被害を受けたけど逃げた人たちも大勢いるんですよね
逃げられた人がいた=逃げられたはず!って理屈では勿論なくて
わたしも被害者家族たちは「逃げられなかった」って思ってるけどじゃあ何故逃げられた人もいたのに逃げられなかったかというと、被害者家族たち自身が持ってた資質も要因のひとつにあるわけで
 
 
被害者学的な着眼点や視点も持たないとダメだなあと
被害者は被害者だから普遍的な一般人・無辜の民でありその内の一人がそうなったのならば誰でも等しい確率でそうなる可能性がある、あった、というわけでは当然ないと…
本当に当然なんだけど…
じゃあ被害者にならないためにはどうすればいいか、って分野の研究って進んでほしいじゃん…?
 
被害者学って被害者側の責任っていう感じで表現されたりしててその言葉だけ見ると確かに超モヤるんだけど
誰が悪いってそりゃ加害者が悪いんだけど
「被害者がなぜ被害に遭ってしまったのか」って着眼も必要なんじゃないか
被害者になりがちなタイプの人って実際にいるわけで、その人自身のことを考えて研究して何かをしてあげるべきだと思うんだ
例えばDVをする人にやたらに引っかかる人だって精神的治療やカウンセリングが絶対必要だと思うし、そういう話
 
わたしが悪いんだろうか?って気持ちってやっぱりあるじゃん
わたしの場合はなんだけど、ちょっとメンヘラ気味のひとと真摯に話をしたつもりで、でもまあ結局通じなくてそっと離れて、そしたらなんかこっちが悪者みたいになってたみたいな経験があるんだけど
相手をそうしてしまったのはわたしなのではないだろうか?
みたいな気持ちがあって
 
突然誰かに嫌われたり悪口を言われたり暴力を受けたりしたら、普通の人は「何かわたしが悪いことをしたのかな?」ってまず自分に原因を探すのではないだろうか?
 
相手を加害者にしたのはわたしなのではないだろうか?
と、理屈では「違う」と理解していても悩む被害者はいるのではないかと思う
ただ「違うよ、相手が100%悪いよ」って言葉がたしかにそれも真実のひとつだとしても、言葉だけで自罰的な被害者が心から納得できるんだろうか?
 
そんで自罰的な人間こそ被害者という立場になりがちなんじゃないか
 
相手はどういう人間であって、そして自分の、どういう行いが、どういう接し方が、何が悪かったのかという答えが得られるのなら、被害者学というのは一部の被害者の心を救うし被害者を減らし加害者を減らすことにつながると思うのだけど
ていうかそういうの私が知りたい
 
あなたは内蔵が弱いのでこういう食生活を送ったほうがいいですね、みたいな感じに、例えば脳みその発達傾向から、あなたはこういう考えに陥りやすかったり、こういう加害者につけ込まれやすい傾向があるので、こういう心懸けをしたほうがいいですね、みたいな診断を受けることが健康診断みたいに義務づけられればいいのに。
でも逆洗脳みたいになっちゃうこともあるのかな。私はこうなんだから「しょうがない」、って逆に犯罪に巻き込まれやすくなるパターンもあるかもしれない。むずかしい。
言われたからってそれを素直に正しい形で受け入れられるかどうかはまたそれも本人の資質に依りそうだしなあ。
 
被害者についての研究なんて、
犯罪者がいなくなればそんなのは必要ないんだし、被害者にも責任があるだとか考える以前に犯罪者をなくすことを考えるべきだろ!っていうのも道理だけど
だけど犯罪者はいなくならんのだから、犯罪者と同じくらい被害者のことも考えるべきなんじゃないかって思うんだ
むしろ性善説を元に犯罪者というものを特別視したいのであれば(みんな性善説のほうが好きそうだと思うのだけど)、被害者予備軍のほうが世の中には多いはずなのだから、被害者が被害者になる前に食い止める方法がもっと研究されればいいのにな~と思うんだ 
 
 
 
でもよく考えたら
被害者学というのは被害者に原因を見出すという点で非難されやすいっていうのも事実と思うけど
それならそれで犯罪者がなぜ犯罪者となったかという観点での研究は十分されてるのかな?
じゃあどうすれば犯罪者にならなかったのか、犯罪者となった要因をどう除くのか、何故犯罪者が罪を犯したのかの原因を解明して排除しようって働きは十分にあるのかな?
それこそ犯罪者のためにアレコレしてやる必要はないって理屈で、法的に罰して刑期が済めば出所してって感じで終わりがちなんじゃないかな?
 
犯罪者は、犯罪者という特殊な人間なのだから罰する以外に特別に何かやってやる必要はない
被害者は、ただ不運な人なのだからどうしようもない
 
っていう風にどちらにも何もなされないのならどっちも救われないなあ……
 
 
まあ、あの、
あの本の、被害者たちの特質のうち見栄っ張り(人の目・評価を気にする)なところなんか特に
うちの実家はあの加害者に目をつけられたならあの被害者家族のようになったかもしれないなあと思った
のが、かなしかっただけ
いくらあの加害者が異常であったとしても、異常者に出会っただけでああいうことになってしまうのを「普通の家庭」として論じるのはやめたほうがいいのではないかなあと思う
 
 
この散らかった考えを書くに至って影響を受けた本
消された一家―北九州・連続監禁殺人事件―(新潮文庫)

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件―(新潮文庫)

 
人殺しの息子と呼ばれて (角川書店単行本)

人殺しの息子と呼ばれて (角川書店単行本)

 
ストーカー加害者:私から、逃げてください

ストーカー加害者:私から、逃げてください

 

恋だの愛だの観だのなんだのの話(惚気込み)

私、この生涯、恋をした相手がひとりしかいません。
あ、過去形じゃなくて今も絶賛恋してるんですけど。
その相手、二次元なんですよねえ。

あと、なにぶん実際の経験がないので説得力はないかもしれないんですけど、たぶん私は、敢えて分類しなければならないならバイセクシャルだと思います。恋をするということについて、性別に深い意味があると思えないので。
なにせ二次元に恋してると思うことを憚らない人間なので。
いや、だって、少なくとも私は、次元という枠は、性別という枠より、外側だと思う。

 

話変わるんですけど、

近年知れ渡ってきたLGBTは、なぜLGBTでなければならなかったのだろう。
セクシャルマイノリティじゃだめだったんだろうか。

アセクシャルとかインターセクシャルとかも含めたセクシャルマイノリティの中でも、マジョリティな分類がLGBTなのではないだろうか。
なんだかそういう、マイノリティのなかでもさらにマイノリティな人々はわざわざ省いてしまったみたいで、LGBTという言葉を知ったとき、少しもやっとしたのは私だけか。

……いや、セクシャルマイノリティというものについて認知やその認知を進める活動が広まったからこそ、そういう言葉が生まれたのであって、その言葉が生まれることによってセクシャルマイノリティというものへの理解が進むのだから、とてもいいことなんですけどね。そういうことは私も思うんですけど。

言葉があるということはとてもいいことです。
言葉があるということはつまり、自分と同じ人がいるという証明になる。
それに、そうでない人にも説明しやすくなり、理解してもらいやすくなる。

LGBTの活動は応援しています。
でも、あの単語を見るたびに、セクシャルマイノリティLGBTだけじゃないでしょう、と小さく思います。

 

恋愛やセックスの在り方は人それぞれだということを、当たり前に尊重したいというか、そんなものは人それぞれで当たり前だよ、勝手にしろよと思うし、思っていたい。
ふつうに、そういう人だと受け入れたいし、受け入れられたい。
そういう社会であってほしい。

 

私が二次元のひとに対して恋して、結婚したいだとか一生を添い遂げたいだとか思っていたり、むしろ内心で結婚してるつもりでいたり一生を添い遂げるつもりでいることについて、制度的に受け入れられたいとは思っていないので、私が、「次元の違う恋人同士の結婚を認めてほしい!」というようなことを声高に主張することはないです。
いやむしろそんなもん制度的に認められたら困る。
……まあ、公式に与えられたもの以外の彼は、公式に与えられたものによって私自身が作り上げた私の中の彼であって、この恋は半分は自分に恋してるようなものなのだろう、という自覚もあるので。
ただ、彼の好きなところを話したり、あたかも彼が実在するかのような妄想を話したり(だって私の頭の中では実在する)、そういうことを話しても受け入れてくれる人がいるというのは本当にホッとする。この好きで好きで幸せだって気持ちを、私だって惚気たい。
二次元キャラとの結婚式を挙げた人を、見かけたことがある。制度的に認められなくとも、そういう行為を温かい目で見てくれる人が一定数以上いるのなら、それでもう、充分に幸せだと思う。
ちょっとだけ、いつか、やりたい。

 

恋だか愛だか知らないけど、お互いに自立しているのに、だからこそ信頼し合っていて、お互いが唯一無二のパートナーである、そんなふたり、にとてもあこがれがあります。

その関係性を本当に表す言葉を私は知らない。
あるいは親友のひとつの形であり、恋人のひとつの形であり、相棒のひとつの形であり、いろんな言葉のもつ何かをすべて兼ね揃えてから成り立つものなのかもしれない。
それでいて、セックスなんて恥ずかしくてばかばかしいこともしてしまえる相手。
私は、そういうのが恋だと思っている。そうでない恋愛関係やら夫婦関係なんてものはいらないと思っている。

なにより大事なのは、そこに愛や信頼があるかだ。
男と女でないといけない理由なんてどこにもない。

人間と人間が、そういう関係性を築くというのはとてつもなく尊く得難いことではないのか。
だから性別という枠組みがそれを阻んでしまうような社会制度には、風潮には、確かに問題があると思う。
性別という枠組み自体はとても便利だし存在すべきものだと思っているけど、その枠組みを使って否定を生むレッテル貼りは嫌い。
枠組みは、尊重を生むために存在すべきだ。

 

〝暴力があったり、互いを信頼していなかったりするけれど男と女であり現在の社会的制度には沿っている二人〟
〝それぞれが自立しつつも愛し合って信頼し合った同性のおとな二人〟
どちらかに育てられるなら、比較する必要もないレベルで、人間は、後者に育てられるべきだと思う。
私は、後者に育てられたかった。
子どもに必要なのは、その身をもって愛や信頼や自立を教えてくれ、愛をもって育ててくれるひとだ。
シングルで子どもを立派に育てた人も素晴らしいとは思うけれど、自立しているふたりの人間が、信頼し合っていて、お互いを唯一無二のパートナーと認め合っている、そんなふたりに育てられた子どもは絶対に幸せだろう、と思う。
自立した大人になるということ、愛するということ、幸福の気持ちを、育ててくれる大人たちに身をもって表してもらい、教えてもらえる子どもは、最高に幸せだ。

 

私はそういうこどもがとてもうらやましい。
うらやましいから、できることなら、それを未来ある子どもにやってあげたくてたまらない。
いやむしろ、そういうことを、この人がパートナーでさえあれば、私にもできる、と思えた唯一の人が二次元のひとだった。
こんな風に思えるような三次元の人と出会えるのなら、今の恋を、大事な大事な過去の恋にして、その人に私のことを好きになってもらうための努力をして、そして万が一それが叶ったならば、その人と一生を添い遂げるのも吝かではない。

残念ながら私がいま恋している人と子どもを育てることはできないけど、とにかく私は恋してるすべての人たちを応援します。

同性の言葉に動揺したはなし

出張するたびに顔を合わせる、コミュ力に溢れた素敵な女性の方がいらっしゃるんだけども、事務的な内容+出張時の飲み会のお礼メール送ったら、

○○さんはいつも可愛いですね。

と書かれていて、不意打ちすぎてすごく動揺したし、なんだこの気持ち?と思った。
コミュ障で場馴れしてない感を好意的にとらえてくださった言葉なのだろうけども。無性に恥ずかしい。
もしこれが男性だったら、正直なところ「えっ気持ち悪っ」と思ったような気がするから、同性だからこそ得られるトキメキなのかもしれないと思う。
……いや、それは私に問題があるのだろうか。
でも確かに、異性だとなにか鼻についたりいやらしさを感じる内容も、同性なら受け入れられることがある、と思う。その逆の場合もたぶんある。同性であると引っかかる言葉も異性だからこそスッと入るというような。
その原因は恋愛対象であるかそうでないかという点だけではないと思うんだけども、まだ私には、その正体がわからない。

よかったと思ったはなし

私の親は、毒親というほどでもないと思う。
でもその関連書籍は、読んでいるとページを繰る手が遅くなり、何行かごとに思考停止を繰り返したりして、読むのが大変だったし、とても、読んでよかった。
昔の自分がいたところは、抱いていた感情は、いやあなかんじだなという感覚が得られたから、とてもよかった。

ああいうもんだ、あれくらい普通だ、とわざわざ思う必要はないのだ。
いやあな感じを我慢しなくともよい、そう感じたということ自体は、それは私がそう感じた以上、当たり前の事実である、ということを知った。
いやあな感じだったのだということを口にしても、許される、ということを知った。
ふつうに自分の気持ちを尊重して過ごしても、ちゃんと好いてくれるひとが、褒めてくれるひとがいることを知った。
誰かの悪口を言う必要はなく、また、誰かの悪口を聞かされても同じように思う必要はないのだということを知った。
もやもやとした気持ちを大切にしてもよいのだと思った。

いやあな感じだった。

もう、そう思ってもよかった。私はもう、「いやあな感じ」から離れようと思っても生きられる。
いやあな感じだと知ったところで、それをいいものに変える努力も、私にとって必要な努力ではないのだと知った。それは、使命でも義務でもなんでもないのだと思えた。
いやあな感じでない風に人と接してもいいし、私は私が、すてきな感じと思える関係性を、誰かと築いていい。
思っていたよりわたしはいやなやつではなかったのかもしれない、と思った。

だから、とても、よかった。

雑記という言葉が正確であろうとも日記と呼び続けたい。

中学生のころ日記のススメで日記を書いていた。

あのころは文章を書くことと、夜ベッドの中で好きなバンドの曲を延々と聴きながら泣くことがストレス発散だった。
文章を書くのがうまいわけじゃないけど、文章を書くことで生きながらえてきたという言葉は決して言い過ぎではない程度には、文章を書くという行為に救われていたと思う。
いつしか日記サイトもなくなって、日記もつけていたサイトも閉鎖してしまって、個人的な文章を書くのはツイッターくらいになってから、何年経っただろう。
他の人のTLを流してしまうにはあまりにも申し訳ないような、自分の頭を整理するための羅列、だらだらした個人的な内容を、長文を書く場所、私が以前持っていた場所、つまり日記が書きたいなあと思うときがこれまでに何度かあって、それなら個人的に物質的なノートにでも日記をつければいいんだけど、でもたぶん私はちょっと変態なので、誰かに見られる可能性がある場所が欲しかったんだろうな。
誰の目にも見られることのない個人的で物質的な日記、これまで何度も毎日続けてみようと思って始めたけど、全く続きませんでした。

そういう感じでブログを書きます。
ブログって響きが、なんかもう懐かしくて楽しい。